『塔』に発表した歌など・・・① 平成17年 (随時補訂)

 

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還暦とはよく言ったもので、このごろむしょうに若い頃を思い出す。

私は昭和17年生れ、今年六十三歳になった。特に文学少年というわけでもなかったが、一人っ子だったから子供の頃はよく本を読んで時間をつぶしていた。

まだテレビもない時代のこと、家にいるときはラジオを聴くか本でも読むしか夜の過ごし方がなかったのである.

 

短歌に興味をもったのは中学二年の国語の授業であっただろう。

日記に時々短歌らしいものを書いていたことを覚えている。高校生の頃より新聞歌壇 文芸雑誌 週刊誌などの読者短歌欄に濫投するようになった。

短歌欄があるのは日曜日が多かったから、その日になると駅の売店で有る限りの新聞を一部ずつ買ってきて手当たり次第にハガキを送るのである。

週刊誌や月刊の文芸誌にも送った。今のように自分の書いたものが活字になるという事が少ない時代だったから、まず、短歌のような短い書き物でも活字になって載っているのはうれしかった。

 

その選者は、川田順 木俣修 窪田空穂 佐藤佐太郎 宮柊二 土屋文明 近藤芳美 生方たつゑ 吉野秀雄 など、その人の歌も歌風も考え方も知らず誰でもよかった。

特に毎日歌壇高安国世選に数多く入選 特選を続けた。ペンネームはこの頃から一貫して石川啓である。

本名を出したくなかったのは、短歌を投稿していることが親や友達、のちには職場の同僚らに知られるのがなんとなく恥かしかったからだ。

 

新聞歌壇などに投稿を続けていると、やがてそれでは物足りなく思えてくる。

短歌専門の集団とか専門誌というものが有るはずと思い始めたが、私の住む田舎町では書店にそれらしいものが置いてあるはずもない。

昭和39年、名古屋の丸善か丸栄百貨店の書籍売場で「アララギ」を見つけ入会した。その時店頭に有ったのは「アララギ」のみ、アララギを知ったのは全くの偶然であって、もしあの時他の短歌誌があったら其処に入会していたかもしれない。

 

ベテランでも月々一首か二首しか載らない作品欄に、初投稿後数ヶ月を経ずして4首採稿され、そのまま深入りする事となった。 

それでも、そのあと昭和45年頃まではアララギと併せて毎日歌壇高安国世選にも投稿を続けていたと思う。

 

このようなわけで私の短歌は孤独な少年の密かな投稿趣味が原点なのである。

今もって人に語るほどの学識はないし見識もない、自信もない。

昭和43年、三重アララギと搭短歌会との合同歌会が鈴鹿で開かれ、初めて高安国世先生に見える。

この時私の提出歌が優秀作に選ばれ、選者の高安先生、 「この人はどんな事でも簡単に歌にしてしまう才がありますね」と優しい眼差しをして呟くように言われた事を今も忘れない。

この作者はいつも新聞に投稿してくる若者だという認識は持たれていただろう。賞品に先生の作 「帰るさへなほ限りなく行くに似て野付岬を吹く海の霧」 の色紙を頂戴した。

この頃までには、高安先生が 「塔」 短歌会を経営されている事を知っていたが、そのように知った時は既にアララギに入会した後であった。

 

昭和45年頃を境に新聞歌壇への投稿から遠ざかり、アララギ会員として作歌と勉強に打ち込む事となったのである。                                                                                                   

 

平成9年春、アララギは今年限りで終刊すると突然新聞で報じられた。

地方に住む我々一般会員にはなんの予兆もなく、その報道はまさに青天の霹靂であった。

このとき殆ど反射的に私が考えたのは、この際自分は短歌の出発点に戻ろうということだった。しかし今更新聞の読者歌壇に投稿するほどの気持にはなれない。

アララギを知るまでは新聞歌壇で高安先生に多く影響を受けていた。当時の歌壇で名を知られた歌人のなかで、先生は私が初めてお会いすることの出来た方である。                                                   

 

そこで、先生ゆかりの「塔」に入れてもらおうと密かに決意した。

しかし、当然のことながらアララギ解散の報道は様々の混乱を招いた。

その成り行きのなかで、私は三重アララギ80人くらいを母体に独立した短歌会を作ろうと思い立ち、仲間に提案、「騙されたと思って私に任せてほしい」とまで言って、

常磐井猷麿氏を代表者としたアララギ派短歌会を設立したのである。

それまで年4回発行の季刊 「三重アララギ」の編集を担い、たちどころに隔月刊となし、更にその後2年を経ずして月刊誌としての基礎を固めることができた。

 

「アララギ派」に月刊の見通しが立ったのを機に平成12年一月号より編集を退く。

そしてインターネットに「石川啓の短歌」というホームページを開設した。

平成16年秋、塔短歌会の真中朋久氏より「あなたのホームページを見た」とメール通信を受ける。「興味があって個人的に鉄道に関わる歌を集めている。あなたの歌集「一鱗集」がほしい」という申し出でだった。

真中氏は全く未知のお方、その後二三回メールをいただいたりこちらから送ったり、彼の歌集を頂戴したりしているうちに、私の原点である高安国世選歌欄への懐旧が深まってきた。 

そこで真中氏に「塔」を一冊見本に送ってもらう。

 

平成1612月、老いて初心に還りたく、このようなわけで塔短歌会に入会した。

今は高安国世先生の亡き塔短歌会へ、ゼロから出発の新人として…。併せてアララギ派短歌会にもとどまり、会員からの月々の歌稿受取係をつとめている。

 

                                   (平成17年3月末 記)                                                戻る

 

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