歌集【無焔火】②

     平成 1年―5年

      転 職 記 

ガラス製品検査の職を得たれども老いゆく眼心もとなし

ガラスの切粉が夕日に輝く床を踏み生産ラインの残業に就く

見習のわが除けておく不良ガラスを人は研磨ラインへ戻す

雨寒き夜は検査するガラスの中に混じる気泡の見定め難し

ガラスを断つ音の間に間に平成と決りし年号を伝へあふ声

老眼を隠して就きし検査の職ノギスの目盛読取り難し

      (さらに転ず)

指先ふるへて運転日報書き乱るこぼれし醤油の手に匂ひつつ

雨ながら切れゆく雲間に光立ち明日を恃まむ心となりぬ

味噌倉より味噌の匂ひの流れつつ春風の中荷積みに励む

転職は良かったか悪かったかわからねど配達の一日過ぐるは早し

今日の配達に迷ひし道を地図帖に確かめしのち我は寝につく

若者の多き職場にお父っつぁんと呼ばれて味噌の配達に励む

貶める度胸なく諂ふには口惜しく二十年勤めし店より去りぬ

運転台にTシャツ数枚積みて置き日に幾度か汗に着替へる

窓開けて声を掛けあひ譲りあひ峡の木橋ですれ違ひたり

店名品名を符号と番号でタイプするこの蔵出票どうしてもなじめず

新しく就きし職場に漸く慣れ盆の休みも出でて配達す

      ( 病 欠 )

二十年煉瓦を運びし腰骨の痛みて働けず職替へし今に

嵐の雨やめば虫鳴く暁に鎮痛剤が効きてまどろむ

髭を剃り髪を整へパジャマ替へ見舞ひて下さる上司をば待つ

退院する吾を迎へに来し妻と仏壇の花を買ひ帰りゆく

神はわが心の内に在るものを外に求めて苦しみたりき

      サイパン

島人の昼寝は食後二時間とも午後のスコールが来るまでとも聞く

満ち潮に気根浸りし台湾松の幹を列なりヤドカリ登る

豚も鶏も放ちて塀のなき庭に野菜をつくり自ら足る

ふくよかに誰も太りし島人ら急がず怠らず道なほしをり

きびきびと制服の二人星条旗を掲げたり朝のマリアナ議事堂

島人は誰もゆっくり運転すトラックの荷台には人間も乗せて

実をうがち飲む椰子の水生ぬるし味の薄きを一息に飲む

      亡き友に

君は遅刻吾は早退すれ違ひき終の別れの予感などなく

一生の限り選歌を受けて終りたり迷はず疑はず君ひたすらに

見つむれば木偶が仏に変りゆき世に亡き君の思はるるなり

旅に出ても鳥ばかり詠む君の歌をおとしめたりき今に悔ゆるも

「僕の歌を女房が勝手になほすのだ」憤慨しつつも楽しさうなりき

        嘘

夕焼けて雲騒がしき峡の村カマキリはしばしばトラックの窓を打つ

育ちし町勤めし店とも縁を断ち移り来たりぬなにを悔やまむ

トラックのハンドル握る手の胼胝を週に一度は刃物で削る

凍てゐるか濡れてゐるのか夜の道トラックを降り確かめてみる

一日中雪降る中を運転し眠らむとして雪降る幻影

配達を急ぐ夕べの峡の道いたちが横切りムササビが飛ぶ

鉄道員をやめトラック運転手の二十年に腕時計を着けたることなし

宵積みして庭に留め置きしトラックに朝白々と雪つもりをり

熱ありと嘘も平気で言ひ休む中年更けて運転手はつらし

出稼ぎ外人には勤まらぬ配達運転手この職に励み子らを育てむ

畔草の露にズボンの裾濡らし落ちし積荷の味噌をば捜す

伊勢の町に配達終れば直ぐ帰るわづらふ友を見舞ふゆとりなく

蛇を轢きし時の意外に固き感触が残るハンドル握りしめゆく

次々と追ひ越しぎはに睨まれて我が古トラックのろのろ走る

      面映ゆし

入浴剤のレモンの香りを漂はせ温かきかな妻は眠れり

愛も感謝も言葉に言ふは面映ゆくバースデーケーキをぶら下げ帰る

今宵わが酒飲み過ぎしを叱られぬ娘に叱られる齢となりぬ

古バス一輌住居に欲しと言ひをりき戦後家なく若かりし母

練習して誦んじて来たる挨拶は吃りに吃りて時間かかりぬ

就職する数名にはなむけの言葉はなく迫る受験に励めの祝辞

髪染めし少女は証書を受取りぬ校長に握手されはにかみにつつ

視姦されたなどと少女ら話しつつ笑ひころげてバスを降りゆく

熱に臥し三日剃らざりしわが髭に白きが混るを今朝見出でたり

尊敬する人を問はれて亡き父と答へて受かりし入社試験なりき

      有り難い

酒呑まぬ体に肝臓病みしこと納得せぬまま母は逝きたり

起きいでてしばし蒲団に座りゐつ目の醒めざれば目薬さして

「有り難い」を幾度もつぶやき死に近き母は食べむとひたすら努めき

登校する朝と異なる表情して活き活きと子はアルバイトに行く

      3 K

空壜に残る醤油がこぼれ出て汚れし荷台ひと日匂ひぬ

若者に意見求められこの職場に運転手つづけよと勧め得ざりき

3K職場と仲間同士で嘆けども部外者に言はれては良い気持せず

コンベアに送り来る荷の途絶えたるつかの間背筋を伸ばし息づく

      現実は

幼児抱き妻と営庭に写真撮る光景は嘗ての出征兵士と変はらず

世界の平和に貢献せよとぞ今の世の反論しがたき言葉好まず

白き車輛UNの文字ベレー帽見かけスマートな国際貢献

日の丸掲げ泥にまみれて働きをり現地人らの見物する中

議場閉鎖の指示さへつたなく紙を読むその形式を権威と言ふか

政治には金がかかると嘆きたる代議士より来し弔電読まる

       〇 

幼き吾を抱きすくめ母は飛行機の音をおそれき戦争の後も

飯粒が見えぬと老眼を嘆きたるかの日の母よりわが老い早し

弔問の挨拶も出来ぬ愚かさのままに五十歳になりたり我は

手首までポストの口に差し入れて君への手紙確実に落す

宛書までワープロに打ちて来る手紙こころ移りゆく人かと思ふ

台風の過ぎたる朝の光差し金柑の花に蜂の集まる

雪溶ける水が樋を落つる音幽けき部屋に君を待ちをり

      悔い

トラックに仮眠する此処鉄道の高架の真下に音の死角あり

大企業なら係長さと苦笑して部長は荷積みを手伝ひくれぬ

底薄き靴に足の裏熱く日照りの中を荷役しつづける

老眼鏡誂へむかな配達伝票小型になりて文字読み難し

電車車掌の仕事を厭ひ親の意見にそむきて辞めし若き日を悔ゆ

未明には発たむと荷台にシート張る雨近ければ二枚重ねて

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