平成13・14年
  

         福は内 鬼も内

外泊を許されて来し病む汝が錆びはじめたる単車を磨く

ええなぁ鳥は空が飛べるから脚病む汝が高きを見やる

脚を病み心塞ぎてゐる汝の蜥蜴の尾さへ羨しみて言ふ

退院して帰りたる汝打水が匂ふと庭に佇みてゐる

家族の病むこの時期に嫁ぎたしと言ふ汝を鬼かと思ひつつ聞く

足入れ婚の如しと言ひかけ口つぐむわが娘にすぎたる青年なれば

嫁入り荷物を持たせてやれぬ父我は肯き頷き聞き入れるのみ

因習を戒めながら君達の新しき企画を退けてゐる

反面教師といふほど悪にもなれぬまま娘を手放す時は至りぬ

県境の大河越えたる先の町虹消えぬ間に行け待ちゐる彼に

あっけらかんと婚前旅行に行く者を理解ありげに見送る我は

殴りつけて子らを諌めし事もなく育てし思へばこの悔い深し

職退きて嫁ぎゆく日を待つわが子すこし肥りて物言ひ優し

また風の出でて一月二日午後嫁したる娘はまだたづね来ず

婚姻を届けしこともさりげなく含めて暫く話してゆきぬ

仏壇に点したる灯の消えたれば婚家に戻る子を見送らむ

娘婿の呉れしセーターあたたかし我には若すぎ大きけれども

ひとつ山越えたる思ひに妻と我と共に酔はむと酒勧めあふ

          そして、草々

夕の鐘わたりゐるらむ門前町遠く想ひつつわが窓閉ざす

鳴きながら群れをひきつれゆく一羽苦しかるらむ夕日を追ひて

吹雪く中くろぐろ高き輪中堤村を護るか塞ぎてゐるか

凧あげる二人の童は土手のうへ光のなかを踊るがごとし

電線に絡みし凧の垂れさがり風の絶えたる町あたたかし

階段を二段飛ばしに駆け上がる早く告げたしこのよろこびを

手荷物を持たせぬやうに気遣はれリュックを背負ふ先生なりき

リュックを背負ふ先生に随ひし二時間を書き残さむにもアララギはなし

           退 職

辞めゆきし少女の机に瓶を置き溢れるほどにあぢさゐを挿す

事務服の似合ふ少女の辞めゆきて職場さみしく梅雨に入りたり

ポニーテールを揺らして書類を配りゐし少女の声の聞こゆる如し

ゆく道は梅雨の晴れ間の夕映えに眩し過ぎて眼のくらむ

もう一日また一日と勤めきぬ一日雇のごとく不安に

三行の退職届に終りたり重労働の四十年が

           余生元年

時刻表を繰りつつ地図をたどるなり行きて聞きたし恐山に声を  

家族のふへぬ血筋とも短命の家系とも嘆きし父の若く逝きにき  

死に絶える家系と思へば虚しむなし何をするのもいやになってゐる

切れし鼻緒をすげると衣を裂きくれき勢ひありきかの音わが母  

血糖値下げむと好きな和菓子絶つ甘味に飢ゑて育ちしものを   

失職者の長き列に連なりてわが名呼ばるる順番を待つ                  

脂ぎる夕映えの街を帰り行く人ら声なく罪負ふ如し                    

騙しあひ勤めしならむ人の群声も立てなく帰宅を急ぐ                   

数人を下ろして電車は発ち行きぬ行くての町には幸あるごとく                

           パラソル

予定早めて十二時前の特急で着くと電話あり声弾ませて

坂出の港に別れし時に似て咳きこむ今も姿の細し

耳飾の落ちたる音に気をなほしたがひに言葉をまた繋ぎたり

長きコートの裾をひきずるやうに去る力なげなる姿見送る

かげらふの中に右むき左むきパラソル回しゐき若き日の君

パラソルを回して橋に待ちくれきわが佳き人の遠くなりたり

肩寄せてゆっくり行かむ君を見送るツインタワーの駅までしばし

プラットホームの別れはつらしと地下街の人ごみの中に紛れてゆきぬ

雨のなか遠く帰り行く人に傘も貸さずに別れたりにき

振返り振返りつつ去り行きぬ別の言ひかたがあったかもしれず

富士山の頭が白くなるころに逢ひて眺めむ企て楽し

           のんびりと

威張ることも嘘つくこともなくなりて職を退きのんびり暮す

形よく手を挙げタクシー呼止めし雄々しき人も職を退きたり

竈で炊きし飯の焦げを食はせると電話ありたり小走りに行く

櫃底をさらひて飯を盛る姿その手うつくしわが見惚れたり

命じられたか依頼されたかその人を見送りながら立ち尽くしたり

敵として尊敬すると声聞こゆ敵とも味方とも思はぬ時に

不精髭のびたるままにのばしをく素顔を隠す思ひにも似て

大声に「おはよう」「おはよう」声掛けあひ今朝もダム湖を一周したり

液晶画面は見るに難しと辞めし君場立ちの経験活かせず逝きぬ

           老い二人

いきりたち峯より暴れ出づる雲血を噴くごとし噴火の如し

背くらべをするかと並ぶ峯ふたつ日あたる峯はふくらみて見ゆ

一つおきに花びらはづししコスモスを投げあひ遊ぶ湖岸にふたり

お山参りの老母を背負ひ紅葉を分けてゆきたる山かあの山

紅葉に明るむ獣道ゆかば骨積む凹のあるかとおもふ

道に迷ひ再び渡る笛吹川水筋ごとに夕日の映る

風化して誰の歌碑か草のなか無縁仏のごとく傾く

肩を抱き並びて歩みしこともなく二人老いたり海を見てゐる

日の暮れていまだ帰らぬ妻を待つ幼く母を待ちたるやうに

           父 母

「人間の一生なんて」と言ひかけていまはの母のなに思ひけむ

伏流の川原撮らば抱きあふ若きちちはは写ると思ふ

父のひく大八車を母が押すわが空想も写れとぞ撮る

切れし鼻緒をすげると衣を裂きくれき勢ひありきその音わが母

抜けし歯を屋根に投げたる幼き日父を信じて仕合せなりき

           命つながる

不精髭を剃りて君を迎へに行く人間に会ふは幾日ぶりぞ

蜜柑色のブラウスよけれ雑踏の町を去りゆくわが佳き人は

この寒き都会に勤めし人々のなべて伏目に家路を急ぐ

宝玉の如く月に輝くを川原に拾へばガラスの欠けら

落下傘の兵らが攻めてくるやうに次から次から牡丹雪ふる

老いゆくに最早や用なき本雑誌捨てむ捨てたり身を削ぐ如く

寒き曇りに閉ざされゐたる淋しさに人恋しくて君に電話す

視界閉ざし白鳥カモ等の舞ひ立ちし最上河口の朝わすれず

山裾にひとかたまりの村はあり善人の暮しはここも貧しく

屋根裏の雀の雛ら巣立ちゆきひそかな家に心やしなふ

馬鹿げてる馬鹿げてゐると思へども言ひ返しゑず従ひてゐる

むぐむぐと口籠もる姿に志あらうはずなしわが姿なり

湿り濃き紙の匂ひも今たのし古書をめくりて事例を探す

蕨餅を歩き売りする声きこへ暑きひと日の日差かたむく

笑へ笑へと励ますつもりが病む君を苦しめたりしか今ごろ気づく

逆さまに湖面に写る山かげも火球(ひたま)の夕日呑みこむところ

過ちは惚けたふりして笑ってゐよう責任を負ふべき年齢ならず

粒選りの梅を送るといふ便り文字美しくて梅の実思はしむ

おちょくられたやうに感じて読み終り封筒もろとも破り捨てたり

赤あげて白あげないでと旗遊び遊びしゆゑに会話の弾む

冷え切りし焼酎なれど少しづつ心ほぐるるあたたまりくる

その角は怖き鬼の入り口よ注連縄はりて防がむ病魔貧魔を       

めん鳥とをん鳥のこゑ聞き分けて今朝も目醒めぬわが健やかに  

声ほそくなにか呟きたる妻に問ひ返すも憂き一日の終り     

綿埃ふわふわ棚より舞ひ落ちるその束の間の放心なりき

インク壷のインクにペンをひたしつつ書くは楽しもインクの匂ふ

「こづかいちょう」も「おえかきちょう」も残りゐて嫁したる吾子の産み月せまる

小学生の吾子の使ひし鉛筆が幾十本もまだ残しある

箪笥を移せベッドを捨てろその部屋は間なく産まれる孫の寝る場所

味噌汁とご飯でいいよを口癖にきたりし暮しも今は思はむ

身籠りし娘のために飛石を敷詰めて待つその里帰り

わが庭に去年の蛙醒めるころ祖につながる命あり待つ

 

    「無焔火」あとがき

歌集をパソコンで編集し印刷製本も自分の手で為し 作ろうと考えた。

素人のすることだから製本は上製というわけにはいかない。表紙など

は簡易表装で満足するしか仕方がない。幾つか失敗を重ねたが、そ

れでも近頃になってどうにか本らしい体裁がつくようになった。

 「無焔火」は「でんぐるま」「一鱗集」に次ぐ三番目の歌集である。

ここには昭和61年から平成14年までの作品385首を収めた。

 私は平成14年定年間際に会社の倒産にあい、そのまま年金生活に

はいった。ここに収める歌は私と家族の生活記録である。働いていた

間は労働の歌が主であった。いわば労働ドキュメンタリーが私の歌で

あった。このたび余生の域にはいった今後の生活では私の短歌も大

きく変化していくだろう。

退職を一つの区切りとして、ここに歌をまとめておこうと思う。           

  
  平成151120.          石川 啓

 

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